正義の定義?
「正義」ってコトバはどんなときに使いますか?
あまり日常会話には出ず、大事な局面に使う言葉なんだと思います。
正義のために戦う、自分の正義は〇〇だ、などひと昔の人たちの考えには正義がよく出ていたことでしょう。
正義とは…。
僕は正義とは何なのか、正義を持つべきものなのか、正義があればどんな考え方を持つのか、ずっと疑問に思っていました。
価値判断や行動をするときに、何を基準として考えていているのか、これが正義の根底となるものだと考えています。
どの時代にも、誰がどう考えても、みんなが納得できる「考え」、それが正義に近しいものでしょう。
結論から言えば、僕の考える正義とは、
「自分を含めた全ての人に対する安心・自信・自由の尊重」
です。
これはつい最近になって到達した仮の正義の定義なので、これから十分に考察する必要はあります。
なぜ、この考えが僕の考える正義なのか、を説明しますね。
そもそも正義とは、時代や個人の価値観に左右されることのない、万人への処方箋だからです。
どんな人にも共通する考え、 これが正義を考える上での近道でしょう。
主に、自分と他人(または他人の集団)に対する関係の時に、正義という考えが使われます。
その関係性を良好にするため、自分も他人も満足できるような関係を目指すために、どんなことが必要でしょうか?
端的に言えば、「自分がして欲しいことを相手にもすること」です。
究極的に、相手を満足させるために自分ができることなんて分かりません。何をすれば相手が満足するのかを考え続けるよりも、自分が満足すること、して欲しいことを、相手にもする、ただこれだけが人間にできる相手満足な行動なのです。
ただ、ひとつ注意点があります。全てを相手満足にしてはいけません。自分をきちんと満足させた上での、相手満足です。
もし相手から自分を攻撃されるようなことがあれば、自分を守りましょう。自分にとって一番大切な人間は、自分です。ここを間違えないように。
自分も相手も満足させるように、自分から行動を起こすことが正義です。
では、具体的に何をすればいいのでしょう。
人間が生きる上での最低限保証されている権利があります。
それが「安心・自信・自由」です。
人間が人間として生きていく上で、最もシンプルで最も大切な権利たちです。
人を尊重する、自分を尊重する、これらを実現するためにこの3つの権利があるのです。
相手から権利を奪うこと、自分から権利が奪われることがあってはいけません。
人間らしくいきていくこと。
これが僕の考える正義です。
参考にした本です。
あなたが守る あなたの心・あなたのからだ
森田ゆり著
人と違っても大丈夫
前回テーマにした「多様性」の続きです。
「みんなと違っても大丈夫」な時代になってきた - リッケイのゆるい考え
(読まなくても大丈夫です)
前回では、「自分と違う人たち」と認め合いためには
・尊重し合うこと
・対等な立場であること
の2つが必要であることを述べました。
人と違うことをコンプレックスに感じることはありません。人と人は違っていて当たり前なのです。
人と違うことができるから賞賛される人たち、逆に人と違うことで卑下される人たち。彼らがそう評価されるのは、時代や国によってコロコロ変わる基準でしかありません。
「人と違うから」というモノサシがずっと大衆心理を掴んでいました。
しかし、もうそろそろそんな時代は終わりに近づいてきるのです。
これからはお互いに認め合える、多様性社会へ向かっていくのです。
認め合う人間関係を築ける人が求められます。そんな人たちが活躍する社会へ変貌します。
そういった社会に変わって何がいいのでしょうか。
それは個人が個性を持って生きられるようになります。
人と比べて落ち込む必要もないし、人と違う人を否定する必要もありません。
そもそも「自分は自分でいいんだ」と自己肯定をできることが、生きる上で一番大事なことなのです。
生きてる人みんなが自己肯定をできる一歩として、認め合いがあるのです。
では、認め合いをするために必要な「人を尊重する」ってなんでしょう?
相手を尊敬すること?
ただ相手のいいなりになること?
自分を犠牲にしてまで相手を優先させること?
ぼくはこう考えます。
とてもシンプルな答えです。
尊重する。
それは「相手の気持ちを大事にすること」です。
そもそも「気持ち」とは自分でコントロールすることが難しいものです。どんな人でも、その人の中では大きく大事なものです。なによりも優先させたいものが気持ち、です。
気持ちとは、ややこしい一面を持ち、時には自分を追い込んでくる厄介なものです。
しかし、そんな自分の大切な気持ちをを人からも大事にしてもらえたら人は嬉しいと感じます。それが尊重される、ということです。
相手の気持ちを大切にする。しかし、自分の気持ちも大切にすることも忘れてはなりません。
自分も相手の気持ちを大切にしながら、人との関係を築いていくこと、これがこれからの社会に必要な考え方だと思います。
「みんなと違っても大丈夫」な時代になってきた
「多様性」ってコトバを最近よく耳にする機会が多いので、ちょっと考えてみました。
つかみどころがなくて抽象的なコトバに感じますよね。
何でしょうね。多様性って。
どんな状態でもOKっていうのが多様性なのですかね。
僕は就活をしている時に
「当社はダイバーシティ(多様性)を推進しており、身体的障害を持った人も対象に採用枠を設けています」
みたいな説明をたびたび聞きました。
車いすに乗っている人や、障害で短時間しか働けない人も採用するそうです。とくに外資系企業にこの傾向が強いように感じましたね。
そういった採用方法が始まりかけている状態だが、少しずつでも多様性が進められているのは素晴らしいことだと思います。
これまでの社会は、"単一性"重視でした。
特に日本では「誰かが決められたルール」の中で活躍できる人だけが「有能」だと考えられてきました。この考えは根強く残っていますね。
子ども時代には
「国が定めた教科で高得点を取れる子」
「特定のスポーツで秀でた結果を出せる子」
が良い子と評価されてきました。
大人になってからは
「大企業に入れること」
「役職を持つこと」
「結婚していること」
などが社会的ステータスだと見なされていました。
みんなその"理想像"に向かって努力することを求められきました。
そんな社会ではある一定数の人は幸せに生きられるかもしれませんが、他の人はどう感じるのでしょうね。僕はそんな考え方しかない社会はとっても生きにくいと思います。
だって「誰かのルール」に従うなんて無理しなくちゃいけないし、楽しくありませんからね。
最近になって、このルール=単一性が崩れつつあるようです。
それが"多様性"社会への進展です。
なぜ多様性社会へ変わり始めたのでしょうか?
仮説①
「集団→個人の時代に変わったから」
時代が進むにつれて、物質的に豊かになり1人単位でも生活が可能になったからでは。大家族で共同して生きていく必要がなくなり、個人で働きに出て十分に食べていけるようになったからでしょう。
その結果、親や近所の目からの束縛が弱くなり、その人の生き方に口出しされることも減ってきたのだと思います。それぞれの個人の生き方が認められてきたのでしょう。
仮説②
「社会に余裕が生まれ、新しい生き方も受け入れられるように変わったから」
以前の日本の考え方は「富国強兵」「世界に追い付け追い越せ」など国際的に上になることを目指していました。(今もその考えは残っていますが)
しかし現在は日本の国際的ステータスを今までより上げることは難しくなり、頭打ちになっています。むしろ世界と競い過ぎた結果、日本国内での様々な問題が現れ始めました。
世界を相手にすることよりも、生きやすさを優先するようになり、新たな価値観が生まれてきました。新しい考えを受容できるまでに日本は豊かになっていたのです。
仮説③
「生物学的に、多様なタイプがいれば生き残れる」
種の保存のためには、変わりゆく環境に適応していく必要があります。そのため、多様なタイプを生み出し、多様性社会を人間は作り始めたのではないでしょうか。どんな環境でも生き抜けるように。
これは詭弁かもしませんが・・・。
多様性社会になったらどうなるの?
既存の価値観から新しい価値観への転換が一番に挙げられるでしょう。
タテ型社会からヨコ型社会に変わります。
そのときに現れる価値観とは
「好き嫌いではなく、お互いに認め合える関係」
です。
では認め合えるとはどんな関係でしょう。
僕は「お互いを尊重し合い対等な関係である」ことだと考えています。
「お互いの尊重」
「対等な関係」
この2つともができて初めて「認め合い」です。
実は多様性の価値観とは、
「お互いの尊重 かつ 対等な関係」
です。
この価値観がこれからの社会の主流になります。
逆に新たな価値観に添えない人たちはマイノリティー扱いを受けることになるでしょう。残念ながら・・・。
ちなみに、「お互いの尊重」「対等な関係」の2×2マトリックスは以下のようになります。
いまの自分の周りの人たちとどんな関係を築けているのかを考えるときに、参考になると思います。
これからの社会は間違いなく"多様性社会"へ変化していきます。
その根本にあるのは、「好き嫌いではなく、お互いに認め合える関係」であり、「お互いを尊重し合い対等な関係」を目指すことなのです。
いままで「みんなと違う」を理由に冷たい扱いを受けてきた人たちも、認められる社会へ変わるのです。
あなたも「みんなと違っても大丈夫」なのです。
人と同じであることに価値を置く時代は終わっているのですから。
現実はユメなんじゃないか。
「夢の世界がホントの現実で、
この現実が夢かもしれない」
と考えたことはありませんか?
ぼくは目を覚ますと、一瞬だけ、現実と夢の境界がよく分からなくなります。
おかしな夢を見たときには、世界の根本に触れたように感じます。
もしも、この現実が夢だとしたら。
そういう妄想はしたことないですか?
奇妙な感覚に浸ってワクワクしませんか?
夢の中のように自由に振舞ってみたり、やりたいことをやってみたり、好きなように行動できる世界は素晴らしそうですね。
ぼくは、空を飛ぶ夢を見たいとずっと思っています笑
けれども、現実と夢との違いって何なのでしょうか。
それは、夢の中の世界では、制約がありません。現実世界では物理的にできないことでも、夢の世界ならできることがいっぱいあります。
見たことのない景色やワクワクすること、未知で恐怖を感じることなど、非日常体験があります。
夢は現実を忘れさせてくれる奇妙なもの、だと思います。
また、こんな考え方もあります。
いま生きている現実がユメで、死んでから行く「あの世」が現実なのかもしれない。
死ぬことは目がさめることと同じではありませんか。
生きている間に苦労して得たお金、名誉、友達なんてものは、死んでしまったらどうやっても自分の手元には残りません。
死んだら自分でさえ無くなってしまうからです。
ここまで考えると、現実に生きていようが、夢の中に生きていようが関係がないように思えてきます。
いま目の前の世界で、一生懸命に生きていくことが一番大事なのではないでしょうか。
辛い時には
「いま生きている現実は、実は夢なのかもしれない。そんなに気張らずに、好きなように生きたらいいや」
と思えたら素敵ではありませんか。
死んだ後で、この現実が夢だと分かるのもまた面白いとおもいます。
では、また!
「幸せの量=不幸の量」説
まだ小学生の頃に、幸せの量はプラスとマイナスでゼロになるんじゃないか、と思っていました。
そのきっかけはこち亀のキャラクター無加月さんです。彼は、まさに「幸せの量=不幸の量」で生きていたからです。
一生分の不幸を背負い込みますが、ある日を境に急激にラッキーが連続するのです。
これを小学生の頃に読み、やけに納得していました。
「苦労しただけ幸せが訪れるものなんだ」と強く思い込み、いろんな人にこの説を話しました。しかし、多くの大人たちはこの説を受け入れてくれませんでした。
大学生になってもこの説を信じてたのですが、ある転機により考え方が変わりました。
同じ説をもった後輩に出逢ったのです。
彼もこの説を妄信的に信じており、不幸になる状況を積極的に受け入れてました。
冷静に彼を見ていると、彼は一生不幸を取り込み続けるようでした。
それで彼は満足かもしれませんが、ぼくはそんな未来は嫌だと思えました。
自分の考えの客観視ができたのです。
さて、ここから本題ですが、「幸せの量=不幸の量」とは本当なのでしょうか。
そもそも幸せってなんでしょうか?
ある例え話を紹介します。
コイントスの様に、
幸せが起きる確率50%
不幸せが起きる確率50%
としましょう。
99回連続で「幸せ」が出て、次の100回目に「幸せ」が出る確率は
50%
なんです。
いくら不幸を受け入れていても、関係なく、幸せが訪れるのともあるのです。
ずっと幸せが続いても、さらに幸せが続くこともあるのです。
そもそも幸せと不幸せの違いはなんでしょうか?
起きる出来事は同じでも、それをどう読み取るかによって変わると思います。
病気になっても
「まだ死ぬわけじゃないさ」
と思えるのか
「病気になってしまうなんて自分は不幸だ」
と思うのか。
懸賞の3等賞があたったときに
「懸賞があたるなんてラッキーだ」
と考えられるのか
「ただの3等賞しかあたらなかった」
と考えるのか。
この違いってなんだか、分かりますか?
幸せなを感じられる人たちは、意識的にポジティブな面を見出しているのです。
不幸な人たちは、受け身に物事を捉えて、自分の考えを変えようとせず、ただ周りの環境に依存しているのです。
苦労した人が幸せになれる、というのは
苦労したからこそ幸せになろうとする力を手に入れている人たちのことなのです。
幸せ、という絶対的なものは存在しないのかもしれません。
自分の定義によって幸せが決まるのかもしれません。
どんな状況でも、「これはラッキーだ」と考えられる人が1番幸せに近い人なのかもしれませんね。
あなたの幸せの定義とはなんですか?
ぼくは幸せをこう定義します。
「どんな状況でもこの世に生を受け、今も生き続けられたこと、これを幸せを言わずなんというのか」
自分が生まれただけでラッキー。
さらにこれまで生き続けられたことも超ラッキー。
さらなる高望みは自分を不幸にするだけです。
現状に満足する力、未来をポジティブに見通せる力さえあれば、人間は幸せになれるのです。
結論として、「幸せの量=不幸の量」は間違っています。
では、また!
就活って何だったんだろ?
僕はいま就活生です。
この時期、就活の終わりが見えてきました。
時間と余裕を取れるようになったので、自分の考えをまとめますね。
就活を一生懸命にやってきましたが、
「いったい何のためにやっているんだろう…?」
と思うことがたくさんありました。
そんな僕の疑問と考えを、僕の視点から紹介していきます。
働くことはどんなことなんでしょうか。
<なんで就活するのか>
僕は始める前から、就活に対して全く乗り気になれていませんでした。
「一般的に優良企業と呼ばれる企業から、いかに早く内定をゲットできるか」
というゲームにしか見えていなかったからです。
就活を経験した先輩や友人の話を聞くと、
「就活はみんながやるからね~」
「お金稼ぎたいから働く」
「どうせ働かなくちゃいけないんだからなあ」
など、前向きな気持ちで就活している人があまりに少なかったです。
僕も前向きな気持ちを持てず、周囲の人たちと同じように就活を始めるようになりました。
進めていくうちに、就活の構造に疑問を持つようになりました。
「こんなめんどくさい手順で、学生も企業も就活・採用をしているのはなぜだろう?」
<なぜ人は仕事を求めるのか>
そもそも仕事とは何でしょうか?
働いて出す価値を、誰かが買ってくれて、お金をもらうことでしょうか。
お金をもらうために、働くのでしょうか。
または、自分のやりたい仕事に就いて、やりたいことをやるために働くのでしょうか。
あるいは、「○○会社で働いています」と言うために働くのでしょうか。
もしも、生活できるだけのお金を持っていて、やりたいことが仕事以外でやれて、肩書を欲しがらなければ、働こうとは思わないんでしょうか、働かなくてもいいんでしょうか。
自分がやりたいことって何だろう、と考えることが、働く理由になると思います。
これからも、なぜ働くのかを考え続けていきたいと思います。
では、また!
ぼく以外みんなロボット説
小学生のころ「ぼく以外はみんなロボットなんじゃないか」と真剣に思っていました。
このロボット世界を神様が設定して、実験動物としてのぼくを観察しているんだと考えていました。
ココロを持って生きているのはぼくだけ、という妄想にふけっていました。
哲学用語では、独我論(ソリプシズム)と呼ぶそうです。
この問題には、昔から哲学者が挑んできましたが、まだ明確な答えは出ていないそうです。
他人のココロがもしかしたらプログラムによって動いているだけで、実はロボットなのかもしれません。
人間関係に悩んでいるときにこの問題を思い出すと、フッと心が軽くなります。
「なーんだ、ロボットだらけの世界で悩んだってしょうがない。ココロを持っているのは自分だけなのだから、悩まず素直に生きたらいいんだ」
とぼくは感じます。
しかし本当にロボットなのは他人だけなのでしょうか。
自分のココロがほんとうに存在しているのか疑わしく思えてきます。
自分が考えることも実はプログラムされていて、自分もロボットの1人なのかもしれません。
入力に対して出力する。
例えば、物が飛んできたら避ける、質問されたら考えて答える。
このプロセスの中に、本当に自分のココロが存在するのでしょうか。自分の存在とは、なんなんだ。
ぼくが人間として生きている証明なんて、絶対にできないと思います。デカルトの「我思うゆえに我あり」さえも疑わしく思えてくるのです。
みなさんは、どう考えますか。
他人はロボットじゃない、自分はロボットじゃない、と言い切れますか?
この考えに新たな発見があったら、またブログにも書いてみようと思います!
では、また!