リッケイのゆるい考え

なんちゃって哲学

「優秀と平凡」ってなんだろ?

 

優秀だが何か物足りない。

 

ぼくの周りの学生は、よくこんな言葉で評価されます。就活で人事の社員に言われるみたいです。基本的には真面目で能力もそこそこで十分だが、何かキラリと光るものがないようです。

 

能力としては優秀だが平凡。

 

ぼく自身も感じるところです。ぼくも平凡な人間です。だから、「自分の優秀さを証明したい」と思い、いろいろ頑張ってきました。

 

でも、平凡と優秀にはどんな違いがあるのでしょう?

 

まず能力としての優秀さを示すものとして、コミュニケーション能力、プレゼン能力、思考方法などが挙げられます。しかし、これらは本来は手段であって目的ではありません。勉強して練習すれば誰だって上手になれることです。テストで点が取れることや難関資格が取れることも、能力の1つであり手段でしかありません。

 

確かに能力は大事な素養ですが、より大事なことがあります。

優秀さはなにで決まるのか。 

それは、自分のアタマで考えてそれに沿って行動ができるかどうかです。

 

どんな難題でも、答えのない議論であっても、きちんとアタマで考え、自分なりの答えを出せる人がもっとも価値を提供できる人ではないですか。その人オリジナルの価値を提供できる人が優秀といえます。その人だから出せる価値、ここにフォーカスする必要があります。

 

言われるがまま動く人なんて、そのうちロボットやAIに置き換えられる世界になります。人件費は上がり続け、モノの価格は下がり続けています。ロボットやAIよりも価値を出せる人間になる必要があるのです。仕事の生産性を上げられる人間になることが求められています。どうすれば生産性を上げ価値ある働きをできるのか、考えてみてください。

 

本当に「考える」経験をすると、世界の見え方がグッと変わります。自分の考えが実は誰かの声の代弁をしていただけだと感じるほどです。みなさんも一度自分のアタマで考えてみてください。そして、これからどんな「優秀な人」が活躍するのか観察してみてください。

 

優秀と平凡は、こんな違いがあるのです。ただ優秀の定義付けは非常に難しいので、まだまだ考える余地はありますね。みなさんも何が優秀なのかわかったら、ぜひ教えてください!

次のテーマとして、「価値とはなんなのか」「平凡と非凡の違い」などがあります。機会があればこれらについても書いていきます。

 

では、また!

人と比較するの禁止!

毎日、人と比べていませんか。

 

学生ならテストの点数を人と比べ

社会人なら業績を人と比べ、

しんどくありませんか?

 

人と比べて、落ち込む必要なんてないのです。

 

個人以外にも、学校や会社、国家がいろんな側面で比べられているでしょう。

偏差値で大学を決めたり、知名度や収入で会社を選んだりするでしょう。

その際には、他の大学や会社と比較していることでしょう。

 

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自分を知るためには、人と比べてるのが分かりやすいのでしょう。

だけど、ぼくは人と比べることをオススメしません。

なぜなら、精神が一番大事だからです。

 

精神とは比較のしようがないものです。

いつだって自分の精神しか認識できません。

 

精神以外のことは比較しやすいです。肉体的パフォーマンス、ブレインワークなどがそれが当てはまります。スポーツのタイムや、学力テストなど数値化して比べることがいっぱいありますね。 そこに捉われているばかりいると、精神がおざなりになってしまいます。本当に大事なことが見えなくなってしまいます。

 

どうしても比べる必要があるのなら、過去の自分と比較してみるのはどうでしょうか。

過去の自分よりも、上手にできるようになったことで自分を褒めてあげましょう。もし上手くできなくても、それでいいのではないのでしょうか。過去の自分にはできているので、それで十分ではないのでしょうか。人生は加点式でいいのです。減点式ではないのです。

 

人と比べて、落ち込む必要なんてないのです。

 あなたはしっかり成長しているのです。

はじめて生まれたころ、誰しも無力です。自分ひとりでご飯も食べられないのです。そんなひ弱だった自分が、1人の人間として生活できるようになっただけでも立派ではありませんか。ちょっと不得意なことがあっても、できないことがあっても、些細なことです。

裸で生まれたころより、ずっとずっと強くなっているのですよ。

 

では、また!

 

殺人は悪いこと…?

以前に「自殺ってなんで悪いの?」のエントリを書きました。 

 

rikkei.hatenablog.com

  

そこから考えて、自分以外の人間を殺すことは悪いことなのか、を今回書いていきます。

 

どの国でも殺人は罪に問われる「悪い」ことと定義されています。

ではどうして殺人は悪いこととなのでしょうか。

 

1.自分が殺されたくないから?

2.法律的に禁止してるから?

3.なんとなく悪い気がするから?

 

など、いろいろ理由はあるでしょう。

その理由に対して考察してみます。

 

 

1.自分が殺されたくないから?

確かに、自分が殺されるのが嫌だから、殺人を悪いことと思いたいですね。

自分がされて嫌なことでも、それ自体が善の状況もあります。

 

例えば、人から怒られるとき。

人から怒られることは嫌なことですが、それは今後の自分の力を伸ばすために、注意をしてもらっているだけではないでしょうか。

結果的に怒られたことで、次からミスを防ぐこともできます。

 

自分がされて嫌なことでも、自分にとっての善になりうることもあるのです。

 

 

2.法律的に禁止してるから?

法律で禁止されているから、殺人は悪なのでしょうか。

 

法律や憲法などといったルールは、「してはいけない」と禁止をしているだけで、善悪の判断はおこなっていないのです。

 

戦争の時には、敵を殺すことを政府が善としています。時代や状況によって、善悪なんて変わってしまうのです。

 

 

3.なんとなく悪い気がするから?

なんとなく悪い気がするから、殺人はいけないことなのでしょうか。

 

ここを深く考える必要があります。なぜ、何となく悪い気がするのでしょう。

 

例えば、こういうシチュエーションを想定してみてください。

 

人がたくさんいる場所で、銃を乱射して大量殺人をしている犯人がいるとします。犯人は人を殺しながら、自分に近づいています。

 

しかし、あなたは銃を持っているので、犯人を打ち殺すことが出来ます。(銃を持っている理由はたまたま拾ったなど偶然によるものとします)

 

銃を持っているのは自分だけです。銃を撃たなければ自分が殺されます。

犯人を自分だけが殺せる状況では、犯人を殺すことは善でしょうか。

それとも犯人を撃たず自分が殺されることが善でしょうか。

あなたならどうしますか。

 

ここからはぼく個人の考えです。

 

まず最初のステップとして、罪もない人を殺すことが悪いかを考えます。

これは「悪い」ことです。

 

理由としては、生きることが善だと思っている自分が、相手の善である生きることを妨げているからです。 

 

生を善とする自分と相手が対等に存在している、のにも関わらず、相手を殺すことは、自分の善だけを確保しながら、相手の善を一方的に奪っていることになるからです。

 

つぎのステップとして、大量殺人犯を殺すことは、善悪どちらでしょう。

これは「善」です。

 

理由は、相手の善を奪うことにはならないからです。犯人の善は「自分が生きていながらも人を殺すこと」となっていることです。

 

そして自分の善は「自分が生きていること」です。この善の差がある場合、どちらかが自分の善を譲歩・変革をしなければなりません。

 

そうでなければ、犯人によって自分の善が奪われます。この状況の結末としては、「自分が殺される」or「犯人を殺す」の2つしかありません。

 

「自分が殺される」パターンのとき、犯人によって一方的に自分の善が奪われています。犯人と自分は全く平等ではありません。ただ犯人の善だけが通っています。

 

「犯人を殺す」パターンのとき、自分の善を「自分が生きていながらも人を殺すこと」に変革させる必要があります。

 

これは一見おかしな善ですが、善悪は状況によって変わるものだと思います。さて、この変革された善で、ようやく自分の善と犯人の善が平等になりました。

 

これで一方的に善が奪われることが、お互いにない状況です。こうなって初めて犯人を殺すことが「善」となるのです。

 

 

極論かもしれませんが、ぼくはこう考えます。

他にもさまざまな考え方があると思います。ぼくももっと考えてみたいと思います。

ぜひみなさんも考えてみてください。

 

では、また!

 

(この記事は、殺人を肯定・教唆しているわけではありません。疑問と個人の見解を提示しているのみです)

 

がんばる理由ってなんだっけ?

僕はいままで色んなことを “がんばってきた” と思います。

 

ただがんばらなくちゃいけないから、がんばってきました。

 

けど、もう十分にがんばってきたのでは?とも思います。

 

なんで、がんばるんだろう。

 

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みなさんは「がんばって」という言葉は好きですか?

僕は言われることはあまり好きではありませんでした。

 

「がんばって」の言葉の背景としては、

「あなたのがんばりを認めているし、これからもがんばれるあなたでいてほしい」

という思いがあり、勇気づけのポジティブな言葉だったといまは解釈しています。

 

けど、僕から人に「がんばって」なんて言えません。

 

それでも、相手のことを認めていることを伝えたいので、

「応援しているよ」という言葉を使って、相手を元気づけるよう心がけています。

 

がんばり続けている人に、外野からいえることなんて、この言葉がちょうどいいのではないでしょうか。

 

さて、なぜあなたはがんばるのですか。

 

あさ起きたときに、どんな気持ちで一日を迎えるのですか。

 

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僕は、なぜがんばるのかがハッキリと見えてしまいました。

 

「自分の優秀さを証明したい」

 

これが見えてしまったんです。

これにずっと囚われてきました。

この1点の思いだけでがんばってきました。

 

この背景としては、人から否定されることが強烈に記憶に残ってしまっているからだと思います。

人から否定されると、もう自分では自分のことを肯定できなくなります。

自己肯定することが難しくなってしまいます。

 

がんばることが多く、

「これからどんな状況になっても生きていける」

という自信を持てるようになりました。

けど、「いまの自分のままでいいんだ」なんてちっとも思えていません。

 

だから、自分の優秀さを証明したいのでしょうね。

けど、「優秀さ」「証明する」とはいったいどんなことなのか全然わかっていません。

 

これからずっと、この思いに縛られたままがんばり続けるなんて、僕は望んでいません。

もうがんばることなんて、こりごりです。

 

そのかわり、がんばらないで “楽しく” 生きてみたいな、と思っています。

 自分が楽しいと思えること、これを毎日続けられる人生を歩んでみたいと思います。

 

みなさんも一度、なんでがんばるのかを考えてみてください。

きっとがんばるための思いを持っていると思います。

 

そして、自分がこれからどうやって人生を歩みたいのか、考えてみてください。

きっと見える世界が、また広がってくると思います。

 

では、また!

 

生きてる理由って…?

 

rikkei.hatenablog.com

 前回の「自殺ってなんで悪いの?」の続きです。

 

今回のテーマは「生きている理由」です。

 みなさんも考えたことがあるでしょうか。

 

なんで生きているんだろう?

なんのために生まれてきたんだろう?

 

不思議な感覚ですよね。

どうしてあなたはいま生きているんでしょう。

どうして生きつづけようと思うのでしょう。

 

それぞれの人で生きる意味を見出しているかもしれませんね。

 

なぜ生きるのか。 

僕は1つの仮説を持つようになりました。

生きる意味、それは、「ありがたい」気持ち・出来事に出会うためです。

 

ありがたいとは、存在が難しいことが存在している、この奇跡を喜べるかです。

 

ここに気付けるようになってから、フッと楽な気持ちでいられるようになりました。

嬉しい楽しいことに対しては、ありがたいという気持ちを持ちやすいです。

辛いことやイヤなことに対しても、「こんな状況になっていることもありがたいな」と無理に思ってみると、考え方が自然とポジティブに変わっていくようです。

どんな状況でもラッキーと思えることが、たくましい態度ではありませんか。

 

さて、どんなときにありがたいと感じられるのか、考えてみました。

この気持ちは、「存在に対する自分の認識」によって変わると思います。

 

下の図を見てください。f:id:rikkei:20170606164004j:plain

これは存在をどう認識するのか、という図です。

この3パターンの中で、1番ありがたいと感じられるシチュエーションはどれでしょうか。

きっと③ですよね。

 

サプライズプレゼントが準備されているとは全く思わない状況で、プレゼントをもらえること。これが1番嬉しく感じませんか。

 

なぜ、これが1番嬉しく感じるのでしょう?

 

そもそも、なぜ、ひとは「ありがたい」に出会えることで、喜びを感じられるのでしょうか。

 

それは生きていること、そのこと自体が「有り難い」ことだからです。

自分が誕生したこと、いまのこの時に自分が生きていること。

これってやはり奇跡なのではないでしょうか。

 

生きていることに、

 

自分が人生の始まりって覚えていますか?

気づいたらいつのまにか、自分として生きていた、という感覚ではないですか。

それが、上の図の③のパターンだと思います。

 

もし生まれる前に思考していたのなら…

「まさか自分が生まれるとは思わなかった。それ以前に、生まれることという概念さえなかった。なんなんだ生まれるって」

と思っていたのではないでしょうか。

それぐらい生まれることなんて、唐突で全く予知も出来ない現象なんです。

認識してこなかった世界へ、新たに自分が存在すること、これが奇跡なんです。

 

だからこそ、生まれてきた自分が感じられる喜びって、「ありがたい」の気持ち・出来事から発生しているのでは、と思います。

 

「自分がいま存在している」

このことがもっとも、難い(かたい)ことです。

起こり得ないいことが起きている、それが生きていることでは、と思います。

 

では、また!

自殺ってなんで悪いの?

フッと意識を失い、苦しまずに、

遺体も消え、誰にも迷惑を掛けずに、

死ねるスイッチがあるとすれば。

 

あなたは押しますか?

 

人生に絶望したとき

生きることが嫌になったとき

押したくなるのでしょうか。

 

そのスイッチを押してもいいのかなと、ぼくは思っています。生きている明確な目的はまだまだ見えていません。いま生きていること、死んでいることの境目がよく分かりません。

 

死にたいわけではありませんが、なんで生きているのか不思議な感覚です。 

 

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これまで自殺がタブー視されてきました。

「自殺は悪いことである」という風潮とは、どこから来たのでしょうか。

どう生きるかの自由があるなら、どう死ぬかの自由もあるべき、ではないですか。

 

自殺は悪いことなんでしょうか?

 

1.家族や友人が悲しむから、死んではいけない

もしも自分の家族や友人が自殺した時を想像したとき、僕は絶望をすると思います。

なぜ自殺を止められなかったのか、自分も後追いをするべきか、などさまざまな思いを巡らせ苦しむことになります。

でも、死んでしまった張本人にとっては、関係のない話、ですよね。

自分の死後、周囲の人がどれほど悲しむのか張本人は分かりません。

また、家族や友人を悲しませないように彼らを納得させた上での、自殺ならどうでしょうか。何の問題もないのでしょうか。

  

2.人生はやり直せるから、まだ死ぬな

どんな失敗しても、自分が生きているのなら、またやり直せる。

「死にたいときには、生きることを選択したうえで、どう生きるか考えろ」という考え方があります。

でも、やり直してまでも人生を送りたいとも思っていない場合、そこまでして生きなくてはいけないのでしょうか。

生きることを強制しているのですか。だれが強制できるのでしょうか。

 

3.生きていれば楽しいことがある

確かに楽しいことはあるかもしれません。

けれど、楽しいことを求めて苦しい思いをするぐらいなら、なんで生きるのでしょう。

また「やりたいことをやらずに死ぬのはいかがなものか」という考え方。

この世に未練がない、希望がないと思う人たちは何を糧に生きるのでしょう。 

  

4.宗教上、スピリチュアル上、自殺はよくない

来世で違う動物になってつらい目に遭う、死んでも魂が苦しみ続ける

など様々な見方があります。

ただ、これらは1つの考え方に過ぎず、確実にそうなる運命かどうかなんてわからないものです。だれも証言できていないのですから。

 善悪の判断を神に託しているように感じられます。

 

5.これまでの先祖に失礼である

連綿と続いてきた命の歴史を、踏みにじるようなことは許されない。

という考え方ですが、これはどうでしょうか。

確かに先祖は、自分の命をなげうってまでも守ってきた子孫の命を、子孫自ら断ってしまうことに憤りを感じるかもしれません。

ただその考えを持つ先祖は、生きることを善、死を悪と、思っていたのではないでしょうか。

いくら先祖でも、自分の善悪を子孫に当てはめられるのですか。

 

6.世界には生きたくても、生きられない人がいる

「 他に苦しんでいる人がいるから、あなたも我慢して生きなさい」理論はおかしいと思いませんか。

自分が甘んじてイヤなことを我慢してたところで、他に苦しんでいる人は救われるわけではありません。心情としては確かに、自分の「わがままさ」を感じるところですが、外野から言われる筋合いはありません。だって、苦しさなんて比べようがないからです。

自殺志願者に忠告をするよりも、「生きたくても、生きられない人」を救うことが先決ではないでしょうか。

 

7.生き物として不自然だから

「他の動物は自殺をしない。生きることに懸命に向き合っている。人間だけが自分の命を絶つことのできる生き物。自殺は不自然である」という考え方。

ただ、人間以外の生き物も自殺はするようです。

アブラムシは個体数が増えると、天敵を呼び寄せ自分を食べさせます。一種の自殺です。

また寄生虫の命令で自殺するカマキリもいます。(これは寄生虫により殺されている、とも考えられます) 

不自然だから、他の生き物は自殺しないから、とは自殺を咎める十分な理由ではありません。

これからの時代、他の生き物でも自殺する可能性もあります。

 

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生きているって本当になんでしょうか。不思議で仕方ないです。

 

いま生きている人間は、生きることを善としている人たちでしょう。

もしも、自殺した人から話を聞けるのであれば

「自殺してよかった、楽になれた」

「自殺しなければよかった、後悔している」

などの意見を聞いてみたいです。

自殺した側からの話を聞いて、反対の視点から考えてみたいので。

 

さらに考えれば、

自殺した瞬間に、自分に関する記録と記憶がみんなからすべて消えてしまったら、自殺は悪いことなんでしょうか。

 

たった1人、自分だけが自殺に善悪を決められるのなら、自殺とはいったいなんですか。

 

なんで自殺をしてはいけないのか、ずっと分かりません。

あなたはどう考えますか?ご意見あればコメントよろしくお願いします。

 

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ここからは僕の考える「自殺メカニズム」です。

 

生きたくて生きたくて、

どうしても生きたかった人たちが

自殺をするのではないでしょうか。

 

自殺の原因は、「生きたい」から、だと考えられませんか。

 

「こんなふうに生きてみたい」

「達成したい夢がある」

けども、上手に実現ができなかった。

 

「こんなはずじゃなかった」をキーワードにして、死へ望みを託すようになるのでは。

自殺する人、その人に非があるわけではありません。

つらい思いまでして、今まで一生懸命に生きてきたことが素晴らしいのです。

 

勇気がいるかもしれませんが、こんな考え方もあります。

 「チカラを抜いて頑張らなくてもいいのでは」

「つらい気持ちでいっぱいなら、そこから逃げてしまえばいいのでは」

 

いままで持ってきた

「絶対に生きなければならない」

「思い描いた通りに生きるべきだ」

という思いはちょっと置いて、だらだら生きてしまいましょう。

 

ちょっとぐらい誰かに迷惑を掛けながら、

生きていくのが人間の生き方ではないでしょうか。

 

ちょっとだけ余裕が出来たときには、

誰からの迷惑を受け入れるようになれれば素敵ではありませんか。

 

 次は「生きる理由って…?」をテーマに書いてみますね。

  

では、また! 

 

 

(追記)

続きのエントリです。

   ↓

rikkei.hatenablog.com

 

(この記事は、自殺を肯定・教唆しているわけではありません。疑問を提示して、問いかけているのみです。)

 

 

大学の意味って…なに?

僕は現在、大学院の2年生です。学部時代から合わせると、大学生活6年目になります。

 

大学では人生最後のモラトリアム期間なので、好きなように過ごしてきました。講義、バイト、学生団体、インターン、旅行、など色んなことを経験してきました。大変だったこと、失敗したことを含めて、いっぱい学びがありました。

 

これから大学に入ろうと思っている人たちや、いま大学生・大学院生の人に伝えたいことがあるので、書いていきます。

 

1.講義の受け方

大学の授業はなんとなく退屈で、自分のためになるなんて思えないでしょう。講義で学んだ知識は、社会に出てしまえば、ほとんど使えないものだと思います。入社してからの研修を受けてから、得る知識の方が実用的で使える知識でしょう。

 

単位を取るため、進級するため、に講義に出席する人がほとんどです。興味のあるオモシロイ講義ってめったにありません。ぼくは70以上の講義を受けましたが、オモシロイ講義は2つだけでした。

 

さあ、ツマラナイ講義を受けなきゃいけないとき、どう過ごしましょうか。

色んな過ごし方があります。睡眠、スマホでゲーム、SNSチェック、ぼーっとする、マンガを読む、たまにノートを取る(or黒板の写真を撮る)、というように過ごす人が多いようです。

 

高校時代は、受験勉強にたくさんの時間を費やしてきたのに、これではあまりにももったいないと思いませんか。もっと有意義に講義の時間を利用できたら素晴らしいと思います。

 

講義に出る目的を決めてしまえばいいのです。「単位取得のため」「興味ある分野を学びたい」などです。そして、その目的のために効率良く講義時間を使ったらいいのです。

 

オススメは、講義中にレポートや課題を終わらせてしまうことです。他にも、興味のある本を読む、課題活動のタスクを片づけておく、ことも挙げられます。ノートは必要なところだけとって、聞き逃したところは友達に聞ければ十分なんです。レポートやテスト前に集中的に勉強すれば、単位はなんとかなるものです。

 

目ざとく見つけて注意する教授の講義であれば、自分の頭で考えておくべきことを考えてノートの隅に少しメモを取るだけでも、十分に時間の使い方として有意義だと思います。ただ漫然と受け身で時間を使ってしまうことが、1番もったいないと思います。

 

時間以外にお金であれば、大学の授業料は以下のようになっています。大学の卒業証書を手にするために、これだけのお金が必要になるのです。

 

国公立の場合

年間授業料53万円×4年間

取得最低単位数124単位

1つの講義に15週参加して、2単位が取れるので

1コマ(90分)あたりの授業料は

530,00×4÷(124×15÷2)=2,280円

 

私立の場合は授業料が74~104万円なので、

1コマあたりの授業料は

3,182~4,473円

 

いかがでしょう。

 

どう思うかそれぞれですが、ほんのわずかな価値しかない講義にここまでお金をかけるなんてバカげていると僕は思います。しかし、これだけのお金を払い、単位さえ取れれば、4年間好きなことをして過ごすことができるとも考えられると思いませんか?

 

そこで、僕は講義以外の場で学べる環境へ身を移しました。

 

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2.課外活動

大学のイメージはこちらでしょうね。部活、サークル、バイト…キャンパスライフを謳歌するためのコミュニティはいっぱいあります。何に入るかは、自分の好みでいいと思います。

 

選ぶ基準としてオススメは、その組織に社会人が所属しているかどうかです。特に、組織の意思決定権に関わるポジションに社会人がいると、活動は面白くなります。シビアな面を見せてくれるからです。

 

 ぼく自身、学生団体、議員インターンシップ、海外での研究インターンシップなど経験してきました。どれも偶然の出会いでしたが、どこの組織でも社会人が決定権を持ちながらも、学生に権限を託して活動させてくれました。

 

高校時代までの「自分たち学生の世界」から「社会の一端が見える世界」にまで広がり、考える質が高まり、行動の幅も大きくなっていきました。これまでとは全く違う世界がありました。

 

座学だけでは学べないことや大事な人たちと出会えることが、なによりも貴重で楽しいものでした。

 

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これから大学へ入る人たちや、いま大学在学の人たちにも、

「大学でやりたいことは何だろう?」「なにかやってみようかな」

をテーマに、自分のアタマで考えてみてほしいと思います。人と同じ考え方をする必要はなくて、自分の欲に純粋になってもいいと思います。

 

やってみたいことに挑戦するのは、楽しいはずですから。

 

では、また!