「みんなと違っても大丈夫」な時代になってきた
「多様性」ってコトバを最近よく耳にする機会が多いので、ちょっと考えてみました。
つかみどころがなくて抽象的なコトバに感じますよね。
何でしょうね。多様性って。
どんな状態でもOKっていうのが多様性なのですかね。
僕は就活をしている時に
「当社はダイバーシティ(多様性)を推進しており、身体的障害を持った人も対象に採用枠を設けています」
みたいな説明をたびたび聞きました。
車いすに乗っている人や、障害で短時間しか働けない人も採用するそうです。とくに外資系企業にこの傾向が強いように感じましたね。
そういった採用方法が始まりかけている状態だが、少しずつでも多様性が進められているのは素晴らしいことだと思います。
これまでの社会は、"単一性"重視でした。
特に日本では「誰かが決められたルール」の中で活躍できる人だけが「有能」だと考えられてきました。この考えは根強く残っていますね。
子ども時代には
「国が定めた教科で高得点を取れる子」
「特定のスポーツで秀でた結果を出せる子」
が良い子と評価されてきました。
大人になってからは
「大企業に入れること」
「役職を持つこと」
「結婚していること」
などが社会的ステータスだと見なされていました。
みんなその"理想像"に向かって努力することを求められきました。
そんな社会ではある一定数の人は幸せに生きられるかもしれませんが、他の人はどう感じるのでしょうね。僕はそんな考え方しかない社会はとっても生きにくいと思います。
だって「誰かのルール」に従うなんて無理しなくちゃいけないし、楽しくありませんからね。
最近になって、このルール=単一性が崩れつつあるようです。
それが"多様性"社会への進展です。
なぜ多様性社会へ変わり始めたのでしょうか?
仮説①
「集団→個人の時代に変わったから」
時代が進むにつれて、物質的に豊かになり1人単位でも生活が可能になったからでは。大家族で共同して生きていく必要がなくなり、個人で働きに出て十分に食べていけるようになったからでしょう。
その結果、親や近所の目からの束縛が弱くなり、その人の生き方に口出しされることも減ってきたのだと思います。それぞれの個人の生き方が認められてきたのでしょう。
仮説②
「社会に余裕が生まれ、新しい生き方も受け入れられるように変わったから」
以前の日本の考え方は「富国強兵」「世界に追い付け追い越せ」など国際的に上になることを目指していました。(今もその考えは残っていますが)
しかし現在は日本の国際的ステータスを今までより上げることは難しくなり、頭打ちになっています。むしろ世界と競い過ぎた結果、日本国内での様々な問題が現れ始めました。
世界を相手にすることよりも、生きやすさを優先するようになり、新たな価値観が生まれてきました。新しい考えを受容できるまでに日本は豊かになっていたのです。
仮説③
「生物学的に、多様なタイプがいれば生き残れる」
種の保存のためには、変わりゆく環境に適応していく必要があります。そのため、多様なタイプを生み出し、多様性社会を人間は作り始めたのではないでしょうか。どんな環境でも生き抜けるように。
これは詭弁かもしませんが・・・。
多様性社会になったらどうなるの?
既存の価値観から新しい価値観への転換が一番に挙げられるでしょう。
タテ型社会からヨコ型社会に変わります。
そのときに現れる価値観とは
「好き嫌いではなく、お互いに認め合える関係」
です。
では認め合えるとはどんな関係でしょう。
僕は「お互いを尊重し合い対等な関係である」ことだと考えています。
「お互いの尊重」
「対等な関係」
この2つともができて初めて「認め合い」です。
実は多様性の価値観とは、
「お互いの尊重 かつ 対等な関係」
です。
この価値観がこれからの社会の主流になります。
逆に新たな価値観に添えない人たちはマイノリティー扱いを受けることになるでしょう。残念ながら・・・。
ちなみに、「お互いの尊重」「対等な関係」の2×2マトリックスは以下のようになります。
いまの自分の周りの人たちとどんな関係を築けているのかを考えるときに、参考になると思います。
これからの社会は間違いなく"多様性社会"へ変化していきます。
その根本にあるのは、「好き嫌いではなく、お互いに認め合える関係」であり、「お互いを尊重し合い対等な関係」を目指すことなのです。
いままで「みんなと違う」を理由に冷たい扱いを受けてきた人たちも、認められる社会へ変わるのです。
あなたも「みんなと違っても大丈夫」なのです。
人と同じであることに価値を置く時代は終わっているのですから。