「幸せの量=不幸の量」説
まだ小学生の頃に、幸せの量はプラスとマイナスでゼロになるんじゃないか、と思っていました。
そのきっかけはこち亀のキャラクター無加月さんです。彼は、まさに「幸せの量=不幸の量」で生きていたからです。
一生分の不幸を背負い込みますが、ある日を境に急激にラッキーが連続するのです。
これを小学生の頃に読み、やけに納得していました。
「苦労しただけ幸せが訪れるものなんだ」と強く思い込み、いろんな人にこの説を話しました。しかし、多くの大人たちはこの説を受け入れてくれませんでした。
大学生になってもこの説を信じてたのですが、ある転機により考え方が変わりました。
同じ説をもった後輩に出逢ったのです。
彼もこの説を妄信的に信じており、不幸になる状況を積極的に受け入れてました。
冷静に彼を見ていると、彼は一生不幸を取り込み続けるようでした。
それで彼は満足かもしれませんが、ぼくはそんな未来は嫌だと思えました。
自分の考えの客観視ができたのです。
さて、ここから本題ですが、「幸せの量=不幸の量」とは本当なのでしょうか。
そもそも幸せってなんでしょうか?
ある例え話を紹介します。
コイントスの様に、
幸せが起きる確率50%
不幸せが起きる確率50%
としましょう。
99回連続で「幸せ」が出て、次の100回目に「幸せ」が出る確率は
50%
なんです。
いくら不幸を受け入れていても、関係なく、幸せが訪れるのともあるのです。
ずっと幸せが続いても、さらに幸せが続くこともあるのです。
そもそも幸せと不幸せの違いはなんでしょうか?
起きる出来事は同じでも、それをどう読み取るかによって変わると思います。
病気になっても
「まだ死ぬわけじゃないさ」
と思えるのか
「病気になってしまうなんて自分は不幸だ」
と思うのか。
懸賞の3等賞があたったときに
「懸賞があたるなんてラッキーだ」
と考えられるのか
「ただの3等賞しかあたらなかった」
と考えるのか。
この違いってなんだか、分かりますか?
幸せなを感じられる人たちは、意識的にポジティブな面を見出しているのです。
不幸な人たちは、受け身に物事を捉えて、自分の考えを変えようとせず、ただ周りの環境に依存しているのです。
苦労した人が幸せになれる、というのは
苦労したからこそ幸せになろうとする力を手に入れている人たちのことなのです。
幸せ、という絶対的なものは存在しないのかもしれません。
自分の定義によって幸せが決まるのかもしれません。
どんな状況でも、「これはラッキーだ」と考えられる人が1番幸せに近い人なのかもしれませんね。
あなたの幸せの定義とはなんですか?
ぼくは幸せをこう定義します。
「どんな状況でもこの世に生を受け、今も生き続けられたこと、これを幸せを言わずなんというのか」
自分が生まれただけでラッキー。
さらにこれまで生き続けられたことも超ラッキー。
さらなる高望みは自分を不幸にするだけです。
現状に満足する力、未来をポジティブに見通せる力さえあれば、人間は幸せになれるのです。
結論として、「幸せの量=不幸の量」は間違っています。
では、また!