リッケイのゆるい考え

なんちゃって哲学

「誰もやらないから俺がやる」をやめよう

仕事をするとき、「誰もやらないから俺がやる」というモチベーションになっていませんか。

 

これは社会人、学生どちらにも当てはまることです。仕事、部活などの組織で活動するとき、誰もやらない仕事は発生してくるものです。

 

この状況はどこにでもありうることです。大事なことは、そんな状況や人のことを恨まないことです。

 

むしろ「誰もやらない仕事を、やれる自分」に価値を置くべきです。

なぜ誰もやろうとしないのか、そもそも仕事の存在に気づいていないのか、など考えるチャンスです。

 

また他の人がそんな状況にあるときには関心を寄せることが必要です。

 

この問題から発生する「なんで俺だけがこんなことをやらなくてはいけないのか」という孤立感と押し付けられ感を減らすことが大切です。

 

これは第三者からの関心、「大丈夫そうですか、手伝いますよ」との声かけで解消できます。

 

自分から他の仕事や人にどんどん関心を持ち、「誰もやらない仕事を誰かがやってその人が苦しむ」ことを減らしましょう。

 

人間は機械じゃなくて、感情をもった人間なんです。

 

では、また!

100点以上の生き方 その2

前のエントリで「100点以上の生き方 その1」

を書きました。これはその続きです。

 

自分への自己評価を、加点式にすることをオススメしました。

 

どんな行為にでもプラスの点数をつけてあげることが大切です。決してマイナス点をつけないことです。

 

注意点として、理想と比べないことです。

 

理想に向かって努力することも大切ですが、理想を強く意識するとどうしても現状に満足できません。

 

理想はただの参考程度にしましょう。

 

理想から逆算した、行動レベルの目標の方を意識することが大事です。それも超がつくほどの基本的なことです。

 

誰かにあったら挨拶をする、親切にしてもらったらお礼を言う、など保育園で教えてもらったことをおろそかにしてはいけません。

 

またこの考え方は、自分が人を評価する方法とも同じだと思います。

全く同じでなくとも、かなり近いと思っています。

 

もし行動した結果で失敗してしまったら、加点はされるのでしょうか。

 

ぼくは、加点されると思います。

結果だけを見るのではなく、失敗によって得られたものを冷静に分析することが重要です。

 

なぜ失敗したのか、失敗するとどうなるのか、失敗したときには自分はどう感じるのか、これからどう修正するのか、さまざまな学びがそこにはあります。

 

成功したときに以上に経験として残るものがたくさんあります。

 

 

また、マイナスは無いと説明しましたが、加点がされないパターンがあります。

 

それは、行動しないこと、です。なんにもせずただボーッとしているだけでは、残念ながら0点です。

 

こんな考え方ができるようになれれば、肩の力を抜いていきられるようになりますね。

 

では、また!

100点以上の生き方 その1

 

人生に点数をつけるのなら、どんな点数になりそうですか。100点?50点?80点?

 

どうやってその得点をつけましたか?

 

点数のつけ方は大きく分けると、減点式と加点式の2つがあると思います。

 

理想の人生からマイナスしていくのが、減点式です。理想を100点として、いかにして減点を少なくするのかがキモになってきます。どんな場面でもハイパフォーマンスを維持することが求められます。確かに厳しく働く場面では、自分を律するいい考え方かもしれません。しかし行動するほど減点のリスクが高まるので、大胆な行動力が伴ってこないという問題があります。行動してマイナスになるぐらいなら、行動しない方が賢明だ、という考え方もここから発していると思います。

 この減点式に基づいて生活している人も多いのではないでしょうか。

 

もうひとつ、ゼロからプラスをしていく加点式があります。

僕はこちらをオススメします。

 ゼロの基準として、生まれたばかりの自分がスタート点だと思ってください。周りに助けてもらわないと生きていけない状態をゼロとしましょう。そこから泣くことで+1点、誰かの注意を引けた+1点。こんな感じでどんどん点数が伸びていくんです。生まれてから今までずっーとプラスの人生なので、累計で100点を超えることは簡単ですよ!

 

配点はみなさん自身が決めたらいいと思いますが、どんな些細な行動でも必ずプラスの点になることを意識してみてください。これを心がけながら生活してみると面白いですよ!

 

朝起きられた +1点

挨拶できた +1点

ご飯を食べた +3点

などなど、何をしても加点していくのでいろいろチャレンジしてみたくなります。

 

この考え方はまだ続きがあるので、次のエントリに引き続き書いていきます!

 

では、また!

幸せってなんだっけ?

あなたはいま、幸せに生きていますか。

 

ぼくはいま幸せを感じているのか、感じていないのか。

よく分からないです。

 

もしかしたら幸せはないのかもしれません。

 

いまの社会、日本の中で生きている不幸せでにならないように制度が作られています。しかしその一方で、制度や周りの環境によって幸せになることはないと思います。

 

自分以外の他人や環境に期待しても、自分を幸せにしてもらうことは不可能です。

 

幸せになるのは、自分のチカラです。

環境さえ変われば、他人さえ変われば、なんて思っても幸せになれません。

 

幸せになるのは権利ではなく、義務ではないでしょうか。

 

 心の健康管理や、心の栄養をあげられるのは自分しかません。

外の世界に誰にも、あなたの代わりをすることはできません。

外の世界に責任を求めることで、自分にとって負担になることが多くなると思います。

「だれも自分を評価してくれないから、自分は不幸だ」「他の場所ならたのしくなれるのに」

という状況から脱してみることが大切です。

 

幸せだから生きるのか、生きるから幸せなのか。

生きるために幸せになるのか、幸せになるために生きるのか。

 

まだまだ考えてみますね。みなさんも考えてみてコメントあれば教えてください。

 

では、また!

「優秀と平凡」ってなんだろ?

 

優秀だが何か物足りない。

 

ぼくの周りの学生は、よくこんな言葉で評価されます。就活で人事の社員に言われるみたいです。基本的には真面目で能力もそこそこで十分だが、何かキラリと光るものがないようです。

 

能力としては優秀だが平凡。

 

ぼく自身も感じるところです。ぼくも平凡な人間です。だから、「自分の優秀さを証明したい」と思い、いろいろ頑張ってきました。

 

でも、平凡と優秀にはどんな違いがあるのでしょう?

 

まず能力としての優秀さを示すものとして、コミュニケーション能力、プレゼン能力、思考方法などが挙げられます。しかし、これらは本来は手段であって目的ではありません。勉強して練習すれば誰だって上手になれることです。テストで点が取れることや難関資格が取れることも、能力の1つであり手段でしかありません。

 

確かに能力は大事な素養ですが、より大事なことがあります。

優秀さはなにで決まるのか。 

それは、自分のアタマで考えてそれに沿って行動ができるかどうかです。

 

どんな難題でも、答えのない議論であっても、きちんとアタマで考え、自分なりの答えを出せる人がもっとも価値を提供できる人ではないですか。その人オリジナルの価値を提供できる人が優秀といえます。その人だから出せる価値、ここにフォーカスする必要があります。

 

言われるがまま動く人なんて、そのうちロボットやAIに置き換えられる世界になります。人件費は上がり続け、モノの価格は下がり続けています。ロボットやAIよりも価値を出せる人間になる必要があるのです。仕事の生産性を上げられる人間になることが求められています。どうすれば生産性を上げ価値ある働きをできるのか、考えてみてください。

 

本当に「考える」経験をすると、世界の見え方がグッと変わります。自分の考えが実は誰かの声の代弁をしていただけだと感じるほどです。みなさんも一度自分のアタマで考えてみてください。そして、これからどんな「優秀な人」が活躍するのか観察してみてください。

 

優秀と平凡は、こんな違いがあるのです。ただ優秀の定義付けは非常に難しいので、まだまだ考える余地はありますね。みなさんも何が優秀なのかわかったら、ぜひ教えてください!

次のテーマとして、「価値とはなんなのか」「平凡と非凡の違い」などがあります。機会があればこれらについても書いていきます。

 

では、また!

人と比較するの禁止!

毎日、人と比べていませんか。

 

学生ならテストの点数を人と比べ

社会人なら業績を人と比べ、

しんどくありませんか?

 

人と比べて、落ち込む必要なんてないのです。

 

個人以外にも、学校や会社、国家がいろんな側面で比べられているでしょう。

偏差値で大学を決めたり、知名度や収入で会社を選んだりするでしょう。

その際には、他の大学や会社と比較していることでしょう。

 

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自分を知るためには、人と比べてるのが分かりやすいのでしょう。

だけど、ぼくは人と比べることをオススメしません。

なぜなら、精神が一番大事だからです。

 

精神とは比較のしようがないものです。

いつだって自分の精神しか認識できません。

 

精神以外のことは比較しやすいです。肉体的パフォーマンス、ブレインワークなどがそれが当てはまります。スポーツのタイムや、学力テストなど数値化して比べることがいっぱいありますね。 そこに捉われているばかりいると、精神がおざなりになってしまいます。本当に大事なことが見えなくなってしまいます。

 

どうしても比べる必要があるのなら、過去の自分と比較してみるのはどうでしょうか。

過去の自分よりも、上手にできるようになったことで自分を褒めてあげましょう。もし上手くできなくても、それでいいのではないのでしょうか。過去の自分にはできているので、それで十分ではないのでしょうか。人生は加点式でいいのです。減点式ではないのです。

 

人と比べて、落ち込む必要なんてないのです。

 あなたはしっかり成長しているのです。

はじめて生まれたころ、誰しも無力です。自分ひとりでご飯も食べられないのです。そんなひ弱だった自分が、1人の人間として生活できるようになっただけでも立派ではありませんか。ちょっと不得意なことがあっても、できないことがあっても、些細なことです。

裸で生まれたころより、ずっとずっと強くなっているのですよ。

 

では、また!

 

殺人は悪いこと…?

以前に「自殺ってなんで悪いの?」のエントリを書きました。 

 

rikkei.hatenablog.com

  

そこから考えて、自分以外の人間を殺すことは悪いことなのか、を今回書いていきます。

 

どの国でも殺人は罪に問われる「悪い」ことと定義されています。

ではどうして殺人は悪いこととなのでしょうか。

 

1.自分が殺されたくないから?

2.法律的に禁止してるから?

3.なんとなく悪い気がするから?

 

など、いろいろ理由はあるでしょう。

その理由に対して考察してみます。

 

 

1.自分が殺されたくないから?

確かに、自分が殺されるのが嫌だから、殺人を悪いことと思いたいですね。

自分がされて嫌なことでも、それ自体が善の状況もあります。

 

例えば、人から怒られるとき。

人から怒られることは嫌なことですが、それは今後の自分の力を伸ばすために、注意をしてもらっているだけではないでしょうか。

結果的に怒られたことで、次からミスを防ぐこともできます。

 

自分がされて嫌なことでも、自分にとっての善になりうることもあるのです。

 

 

2.法律的に禁止してるから?

法律で禁止されているから、殺人は悪なのでしょうか。

 

法律や憲法などといったルールは、「してはいけない」と禁止をしているだけで、善悪の判断はおこなっていないのです。

 

戦争の時には、敵を殺すことを政府が善としています。時代や状況によって、善悪なんて変わってしまうのです。

 

 

3.なんとなく悪い気がするから?

なんとなく悪い気がするから、殺人はいけないことなのでしょうか。

 

ここを深く考える必要があります。なぜ、何となく悪い気がするのでしょう。

 

例えば、こういうシチュエーションを想定してみてください。

 

人がたくさんいる場所で、銃を乱射して大量殺人をしている犯人がいるとします。犯人は人を殺しながら、自分に近づいています。

 

しかし、あなたは銃を持っているので、犯人を打ち殺すことが出来ます。(銃を持っている理由はたまたま拾ったなど偶然によるものとします)

 

銃を持っているのは自分だけです。銃を撃たなければ自分が殺されます。

犯人を自分だけが殺せる状況では、犯人を殺すことは善でしょうか。

それとも犯人を撃たず自分が殺されることが善でしょうか。

あなたならどうしますか。

 

ここからはぼく個人の考えです。

 

まず最初のステップとして、罪もない人を殺すことが悪いかを考えます。

これは「悪い」ことです。

 

理由としては、生きることが善だと思っている自分が、相手の善である生きることを妨げているからです。 

 

生を善とする自分と相手が対等に存在している、のにも関わらず、相手を殺すことは、自分の善だけを確保しながら、相手の善を一方的に奪っていることになるからです。

 

つぎのステップとして、大量殺人犯を殺すことは、善悪どちらでしょう。

これは「善」です。

 

理由は、相手の善を奪うことにはならないからです。犯人の善は「自分が生きていながらも人を殺すこと」となっていることです。

 

そして自分の善は「自分が生きていること」です。この善の差がある場合、どちらかが自分の善を譲歩・変革をしなければなりません。

 

そうでなければ、犯人によって自分の善が奪われます。この状況の結末としては、「自分が殺される」or「犯人を殺す」の2つしかありません。

 

「自分が殺される」パターンのとき、犯人によって一方的に自分の善が奪われています。犯人と自分は全く平等ではありません。ただ犯人の善だけが通っています。

 

「犯人を殺す」パターンのとき、自分の善を「自分が生きていながらも人を殺すこと」に変革させる必要があります。

 

これは一見おかしな善ですが、善悪は状況によって変わるものだと思います。さて、この変革された善で、ようやく自分の善と犯人の善が平等になりました。

 

これで一方的に善が奪われることが、お互いにない状況です。こうなって初めて犯人を殺すことが「善」となるのです。

 

 

極論かもしれませんが、ぼくはこう考えます。

他にもさまざまな考え方があると思います。ぼくももっと考えてみたいと思います。

ぜひみなさんも考えてみてください。

 

では、また!

 

(この記事は、殺人を肯定・教唆しているわけではありません。疑問と個人の見解を提示しているのみです)